兄の冗談

「冗談だよ、冗談」
兄はいつもそんな風に笑って、話を終わらせてしまう人でした。
職場の人とうまくいかなくて愚痴をこぼしてみても、長く付き合った彼からプロポーズを受けて悩んでいたときも、兄に相談するとぜんぶ最後は「冗談」で終わってしまうのです。
そんな兄を頼りないと嘆いたこともありました。
笑ってないでもっと真剣に話してよと苛立つこともありました。
だけど、早くに両親をなくした私にとって兄は、兄である以上に親のようなもので、いくら反抗してみても縁が途切れることなど想像すらできない存在だったんです。

「冗談だよ、冗談」
私の頭の中では、さいごにきいた兄の言葉がずっと鳴り響いています。
だから今こうして兄の葬儀に出席していても「冗談だよ」と笑いながら兄が出てくるような気がしてしまうのです。
喪主席には結婚したばかりだった兄のお嫁さんが座っています。あんな美人を置いてあっけなく逝ってしまうなんて、ほんとうに馬鹿な兄です。
(冗談だって起き上がるなら今が最後のチャンスだよ、兄ちゃん)
棺のふたを閉める段になって、私は兄の顔をみながら考えました。
頭を強く打ったはずの兄の顔は、ただ眠っているときのそれと寸分の変わりもなく、それだけに兄が冗談を言っているわけではないということが私には腹立たしいことのように思えました。
兄嫁がすすり泣く悲痛な声が聞こえてきます。
「兄ちゃんの、バカ」
どれだけ悪態をついても、もう兄が笑ってくれることはないのです。

葬儀が終わり、親族の控え室に残っているのは、私と兄嫁の二人だけでした。
「栄子ちゃん」
兄嫁が泣きはらした目で私を呼びます。
「栄子ちゃんごめんね、私だけであの人を見送ってしまった」
仕事で遠方に行っていた私は、兄の最期には立ち合うことができませんでした。
しかしそれもまた運命。兄嫁だけでも兄の側にいてくれたことを私は感謝しています。
「いいえ。佐代子さんがいてくれたから、きっと兄もさみしくなかったでしょう」
「あの人いつも栄子ちゃんの話ばかりしていたの。本当に仲良しだったのね」
「私をからかっておもしろがっていただけですよ」
「『冗談だよ、って言わないとダメなんだ』って言ってたわ」
「……え?」
「あなたの話をきいた後は、どれだけ叱ったあとでも罵られたあとでも笑ってあげないとダメなんだって」
「……それは、どうして」
「そうじゃないと、あなたが泣きそうな顔をしちゃうから。……小さい頃の話かもしれないけれど」
佐代子さんはそう言ってほほ笑みましたが、私はそうではないことに気づいてしまいました。
兄がいつもいつも笑っていた理由。
私の真剣な話にも茶化すようにしか返せなかった原因。
それは私が、兄の悲しい顔をみると泣きたくなってしまうことだったのです。
妹を泣かせないための精一杯の兄の工夫が、あのセリフと笑顔だったのでしょう。
「泣いてもいいんだよって言ってあげてって最期に言われたわ」
佐代子さんの言葉が座り込んだ私の頭に落ちてきます。
そうして初めて、私は涙をこぼすことができました。

だけど兄ちゃん、『冗談だよ、冗談』って兄ちゃんが笑ってくれるのなら、私は一生泣けなくたってよかったのに。

佐代子さんと抱き合ってぐちゃぐちゃになるまで泣いて、そうしてやっと私は兄ちゃんが空に行ってしまったことを受け入れることができたのかもしれません。