たった一つの大事なもの

男:
妄想癖ありの漫画好き。

女:
男を愛して止まない一途な女性。


男「なぜなぜなぜ? 買わない? 知っているだろう? 俺が好んでいることを、楽しみにしていることを? 知っているだろう? なぁ、お前は知っているはずだろう? なのになぜ俺を追い込むような真似をする。なぜ俺を絶望のふちに叩き込む。なぜ俺をどん底に突き落とす。なぁ、教えてくれよ。俺を追い詰めて一体何がしたいんだよお前は?!」

男は力の限り叫んだ。頭をぼりぼりとかきむしっている。目は赤く染まり、今にも誰かを殺しそうな勢いだ。眼前に立つ女はただ黙って男を見つめていた。

男「俺の、俺の大切な物奪って、命より大事な物を壊しておいて、なぜ何も言わないんだよー! 楽しいか。なあ、楽しいかよ。俺を傷つけてそんなに楽しいかよ」

男は胸を抑え、ベッドに座り込んだ。ぜぇぜぇと息を吐き、苦しそうに呻いている。

女「騒ぐなよ。君は病人だぞ」

男の側に近づき、背中を擦る。男は体調を崩し入院していた。個室でただ一人、寂しい毎日を送る男にとって、女の見舞いは嬉しいものだった。否、正確には女の持ってきた品に喜びを感じていた。

女が持ってきたもの、それは――漫画雑誌である。男が幼い頃から愛読している『クレイジーキャンプ』は週一発売で、毎週欠かさずに買っていた。入院した後も女が見舞い品として毎週持ってきていた。だが悲劇は突然やってきた。女が――買い忘れたのだ。

・・・

女「な、何をする?」

男は女を突き飛ばしマウントポジションを取り、首に両手を這わした。徐々に両手がしまってゆく。女は必死で手を振り払おうとするが、男の力は緩まなかった。

女「ぐえっ」

びくりびくりと女の体が震えている。まるで陸に打ち上げられた魚だ。痙攣は静まるどころか、どんどん勢いを増していく。

女「は、はなし……」

怯えた声にも男は耳を傾けない。迫る死の恐怖に震えが加速する。

男「お前は自分が何をしたのか分かっているのか? 俺はお前を信頼していたのに、その気持ちを踏みにじった。俺を裏切った。信頼していたのに、信用していたのに。お前は俺を裏切ったんだぞ! その罪は重い」

女「たった一度忘れたくらいで」

男「漫画にはな。たとえ一話でもいろんな面白さが詰まってるんだよ。お前は俺が人生で味わうはずだった楽しみを奪ったんだ。俺から取り上げたんだ。知らずに生きていくことが、どれだけ苦しくて辛いことなのかお前に分かるか!」

女「ゆ……」

男「いーや、許さない。俺はお前を絶対に許さない。絶対に!」

・・・

女「――すまん。忙しくて買いに行く時間がなかったんだ。時間が出来たときにはもう売り切れてた。君が楽しみにしていることは知っていたから、手に入れるつもりだったんだが……本当にすまない」

女は両手を床について、深々と頭を下げる。男は意識を現実に戻した。イラついたときは、妄想の中で人を嬲り殺す。男のクセだった。

男「いい。気にするな。その気持ちだけで十分だよ(謝って済む問題だと思ってんじゃねえよ)」

男は笑顔を浮かべ、女の肩に手を添えた。女は顔を上げ、目をうるうるとさせながら男に抱きついた。

女「こんな私を許してくれてありがとう」

男「いいよ別に(いいわけねえだろ」

女「私は君のような彼氏を持てて幸せだ」

男「俺もだよ(俺はお前みたいな女と付き合ったことを後悔している。時間は無理にでも作れるだろ)」

女「そう言ってもらえるとありがたい。お詫びにこれ」

カバンの中から一冊のノートを取り出した。男は中身をぱらぱらとめくる。

男「こ、これは?!」

ノートの中には『クレイジーキャンプ』とまったく同じ漫画が描かれていた。

女「前の週の一冊から私が想像して描いたものだ。実際のストーリーとは別物だが、これで勘弁して欲しい」

男「お、おう(おいおいおい嘘だろ。絵柄まったく一緒じゃねえか。しかも面白いだと。意外な才能だ。なんで漫画家にならなかったんだ?)」

女「オススメは『在りし日のアリス』と『砂漠の花』だ」

男「俺はそんな漫画知らないぞ(隅から隅まで読んでるんだ。知らないはずはねぇ)」

女「当然だ。私オリジナルの漫画も描いたからな」

男「なんで?(なんでオリジナルの作品入れてんだよ。余計な真似を)」

女「それは……羨ましかったから」

男「は?」

女「だって君、私と話すよりも漫画を読んでいるほうが楽しそうじゃないか。私だって君の笑顔を引き出したい。だから君の好きな漫画を描いてみたんだ。気に入ってくれると良いけど」

男「俺を唸らせるのはそう簡単じゃない(何言ってんだこいつ。漫画を読んでいるとき以外に楽しい瞬間なんてあるわけない。お前と付き合っているのも体裁のためだ。そんな奴相手に笑顔なんて見せられるわけないだろ)」

女「大丈夫。私は君の彼女だ。好みは大体把握している」

男「へぇ」

パラパラと男はノートをめくった。そこには『在りし日のアリス』。それは男と女の日々そのものだった。

女「私は君が好きで堪らないんだ。過ごした時間、すべてを記憶しているくらいにはね」

女のドヤ顔に男は思わず笑ってしまった。バカバカしくなってきたのだ。

男「俺を満足させてみろ」

女「一生かけてやり遂げて見せるよ」

この後、女は男に対して漫画のような行動を取りまくるが、それはまた別の話である。