禍石(まがいし) 黒 中編

凪:
余命三ヶ月を宣告され、世捨て人になった青年。

少女:
凪の亡き妹に瓜二つ。自宅でピアノの練習に励む。

藍(らん):
凪の妹で、故人。凪と同じ病気で死去。彼の唯一の肉親だった。


翌朝目覚めた後も、凪は、迫り来る死の恐怖に怯えていた。

夜中の激痛はもうなかったが、その時に思い知らされた「死」のイメージが、それまで自分の考えていたものとあまりに違っていた。

そのギャップが、彼にとてつもない恐れを抱かせる。

今まで向き合う事を避けてきた事柄に直面させられた衝撃は、彼から全ての平静を奪い去って尚余りあるものがあった。

朝食も喉を通らず、晴天に恵まれた暖かな気候も、凪の心を癒すには力不足だ。

ネットで死にまつわる情報を貪るように検索し、頭にこびりついた恐怖心を少しでも払拭する手がかりを探してみるが、逆に、死のビジョンがより明確化するだけだった。

(――俺、このまま、一人で死んでいくのか?!
いや、でもそれは、自分が望んだことじゃないか!
とはいっても、でも、しかし……っ!!)

自分で自分をどうしたいのか、全くわからない。

気がつくと、凪はふらふらと、アパートの外に出ていた。

宛てもなく周辺をうろつき回っていると、昨日訪れた公園に辿り着く。

ふと耳を澄ますと、またあのピアノの音が聴こえて来た。

まるで、自分が来るのを待っていたかのような、そんなタイミングで鳴り出すピアノ。

凪は、まるで助けを求めるかのように、例の少女の家の窓を見つめた。

やがてピアノが止み、少女が顔を出す。

笑顔で手を振り、公園へ駆け足でやって来た。

その姿に、恐怖心が薄らいでいく。

?「こんにちは! またお会いしましたね」

明るく微笑む少女は、凪の顔を見るなり、表情を曇らせた。

?「あの……どうしたんですか? すごく、やつれてるような」

凪「え? ああ、これはその……
き、今日も、ピアノの練習をしてたんだね?」

?「はい、もしかしたら、お兄さんが聴きに来てくれるかなーって」

凪「あ、ああ……」

いつもなら、多少は気の効いた対応をするのだが、どうしても普段通りに振舞えない。

やがて凪は、ボロボロと、大きな涙を零し始めた。

?「ど、どうしたんですか? 大丈夫?!」

凪「あ、ああ……だ、大丈夫……なんでも……うあぁぁ」

?「ち、ちょっと、しっかりしてください! お兄さん?!」

少女の顔が涙で歪み、凪はへたへたとその場に崩れ落ちてしまった。

気がつくと、自分は昼間の公園のど真ん中で、大声を上げて泣き出していた。

周りには、誰も居ない――あの少女も、いつの間にか姿を消していた。

公園の脇を通り過ぎる人々が、気味悪いものを見るような目つきで、足早に通り過ぎていく。

それでも、凪は嗚咽を止めることが出来なかった。

どれほど泣きじゃくっただろうか。

跪いた地面が、涙で大きな染みを作った頃、何者かの手が凪の肩に触れた。

?「落ち着きましたか? お兄さん」

凪「……?」

それは、あのピアノの少女だった。

彼女は、綺麗なハンカチを差し出し、優しい笑顔を浮かべていた。

二人は、近くのベンチに移動し、揃って腰掛けた。

?「もう、せっかくのお顔がぐしょぐしょですよ?」

凪「あ、ああ、ごめん……」

?「何かあったんですか? 私で良かったら、聞きますよ?」

凪「あ、いや、これは――でも」

?「お兄さんがここでずっと泣いてたら、私、気になって練習できないですからね!」

凪「あ……! そ、そうか、ごめん!!」

?「ウフ♪ いいんですよ、冗談ですから」

そう言うと、少女は懐かしさを覚える微笑を浮かべる。

ハンカチを受け取ったまま呆然としている凪は、彼女は本当に藍なんじゃないか、と思えてならなかった。

慌てて頭を振ると、ハンカチで涙を拭う。

凪「ごめん、実は……いや、やっぱりなんでもない」

?「私、こう見えても、学校の皆の悩み事聞いたり
相談に乗ったりするんですよ?
きっと、話したらすっきりしますよ」

凪「でも――」

?「安心してください、誰にも喋ったりしませんから」

少女は、殆ど初対面の自分に、何故ここまで優しく接してくれるのか。

凪は混乱を覚えながら、ボソリボソリと、自分のことを話し始めた。

あと三ヶ月の命であること、仕事も生活も棄てて一人暮らしを始めたこと、このまま静かに孤独に死んで行こうと思ったこと。

そして、今更ながら感じた「死の恐怖」のこと――

話をするうちに、少女の顔が強張っていくのが、手に取るようにわかる。

?「あ、あの……凄く、重いお話だったん……ですね」

凪「ごめん、やっぱり、人に話すようなことじゃないよね」

?「い、いいえ! そ、そんなことは……」

懸命に取り繕おうとしてはいるが、明らかに少女は、凪の話に退いている。

その態度が、今日ばかりはとても辛く感じられた。

だが、まだ会って二日目の、ろくに何も知らない人間に、いきなりこんなことを話せば、当然の反応だとも理解出来る。

そんな考えが、かえって凪に冷静さを呼び戻してくれた。

否、そんな気がしただけ、というのが正しいのだろうが。

凪「もう、ここまで話したんならヤケだ。
俺には、同じ病気で死んだ妹がいてね――」

凪は、空を見上げながら、死んだ妹の「藍」のことも語った。

どれだけ仲が良い兄妹だったか、それだけ悲しい死別だったか。

その妹が、少女に良く似ていることも。

少女は、これ以上ないほど不審そうな表情を浮かべていた。

?「あの――作り話でしょ? さすがに」

凪「いや、本当だよ。
ちょっと待って」

凪は、財布の中にいつも入れているソフトカードケースを取り出した。

そこには、まだ妹が生きている時の写真が入っている。

暖かな笑顔を浮かべた、藍――思わず、また目頭が熱くなる。

だがその途端、少女は、まるで恐ろしいものでも見たような顔で、ベンチから立ち上がった。

?「れ、練習に戻らなきゃ!」

凪「え? あ、ああ……」

少女は、さよならの挨拶もなく、逃げるように走り去っていった。

写真入りのカードケースを手にしたまま、状況に付いていけてない凪だけが、ポツンと取り残される。

少女が残して行ったハンカチを見つめ、凪は、洗濯して返さなきゃと考えていた。

その日の晩、寝るのが怖くてずっと起きていた凪は、睡魔に負けて、明け方近くに机で眠ってしまった。

幸いにも、あの発作は起きず、昼過ぎに目覚めるまで何の苦痛も感じなかった。

また、昨日のようなどんよりとした気分もない。

凪は、夕べのうちに洗っておいた少女のハンカチが乾いているのを確認すると、それを丁寧に畳んだ。

再びあの公園に向かったものの、今日はピアノの音は聞こえてこない。

それどころか、少女の部屋の窓は、固く閉ざされたままだ。

凪「……」

あれから色々考えたが、やはり藍の話をしたのは軽率だったと、凪は今更ながら後悔した。

彼女からすれば、あれは自分の隠し撮り写真を見せられたようなものじゃないか、と今更ながら気付く。

凪は、彼女の家の門まで行くと、ビニール袋に入れたハンカチを、そっと郵便受けに入れた。

(まあ、藍の顔を見れたと考えれば、それだけで充分か)

そう自分を無理矢理納得させると、凪は、とぼとぼとアパートへ帰っていった。

凪「――に、二ヶ月?! なんで、そんな突然?!」

凪は、顔面蒼白になって、主治医に掴みかかった。

その翌日、健診のために病院に行った凪は、自分の症状の進行状況を聞き、愕然とした。

あまりの衝撃に、詳しい話は頭に入らない。

だが、発作により病巣の侵攻が更に進んでおり、以前よりも明らかに死に近づいているという事実だけは理解出来た。

覚悟した筈の死が、こんなに急に接近してくるとなると、さすがの凪でも動揺は隠せない。

身体的に自覚が全くない状態というのも、かえって恐怖心を煽っていた。

主治医の言う発作に該当するものは、あの晩の凄まじい激痛の時だけだ。

もし、またあの発作が来たら――

再び、凪の心を「死の恐怖」が支配し始めた。

アパートに戻った凪の胸中には、これまでとは違った虚無感が訪れていた。

死への恐怖に打ち勝つためには、もはや自身の感情を麻痺させるしかない。

無意識にそう考えたのか、凪は、無感情に時を過ごす。

またPCの前に座り、明るいうちからインターネットを巡る。

なんとなく買った、慣れない酒の味が、苦く辛い。

しかし、酒に弱い凪の身体は、ほんの少量で程好く酔いが回り、若干ながら恐怖心が薄らいで来たようにも思えた。

昼食も、夕食も摂らず、ただひたすらネットに興じる。

そんな時、ふと、机の上に置きっぱなしになっている、金色の石を見止めた。

多少埃を被ってはいるものの、相変わらず、黒と金の美しい輝きを放っている。

それを眺めているうちに、ふと、以前に見た女性のブログのことを思い出した。

(もしかしたら、あの女性は、SNSか何かやっていたかもしれない。
そっちに、何か書かれてたら――)

自分が持っているものと良く似た「球」を持っていた女性。

ブログは、五年前で停止している。

ブログの記事を再確認すると、SNSのアカウントについて触れている日記が見つかった。

凪は、相当前から放置している自分のSNSアカウントにログインし、早速彼女の書き込みを確認してみることにした。

しかし、その書き込みを辿ったことを、凪はすぐに後悔する羽目になった――

書き込みは、やはり五年前で止まったままになっている。

最後の方の書き込みの内容は、ブログにもあった同僚の突然死に関するものだった。

だが、内容が若干違っている。

女性は憎い同僚の死を願ったところ、それがダイレクトに叶ってしまい、激しく狼狽しているようだった。

やがて女性は、願い事が叶った理由についても、言及を始めている。

しかし、その仮説は、にわかには信じ難いものだった。

“この「球」は、願い事を叶えてくれる。
その代わり、願った主に不幸を与える――”

女性がSNS上で述べている内容は、そんなものだった。

凪はふと、女性のブログの内容を再度読み返し、条件を当てはめてみた。

最初に叶った願い事は、嫌な取引先の担当者の死。

その後、「球」の中央にあった黒い部分が肥大化した。

そして女性は、退職する羽目に陥った。

次に願って叶ったのは、再就職。

その後、「球」の黒い部分は、更に肥大化していた。

そして女性は、新しい就業先で人間関係のトラブルに巻き込まれた。

最後の願いは、同僚の死。

その後、「球」は、ほぼ黒一色に変わっていた。

そして女性のブログは、そこで止まったまま。

一番最後の書き込みは、その女性ではなく、家族による書き込みのようだった。

『突然ですが、姉の○○は、先日急死いたしました。
フォローしてくださっていた方々には、心より感謝いたします。
この書き込みは、○○の妹が、亡き姉に代わり書き込んでおります』

凪「え……うそ、死んだのかよ?!」

まさかの内容に、凪は愕然とする。

そして、女性の挙げた仮説を、もう一度読み返してみた。

(この女性、まさか……最後の願い事の代償に、死んだ?
んで、もしかして俺……もう願い事を、叶えてしまったのか?!)

凪は、あの少女との奇跡的な出会いを思い出した。

その晩訪れた、死の恐怖をも感じさせるほどの凄まじい発作。

それは、自分の残り少ない寿命を、更に縮めるくらいに強烈なもの。

黒かった球は、中央の金色部分が、当初よりも明らかに肥大化している。

(まさかこの石、持ち主の寿命を食って、願いを叶えるってのか?!)

そんな結論に達した凪は、石を掴み、思わず窓の外から投げ捨てようとした。

だが――振り被った時点で、動きを止める。

凪は、手の中の石をまじまじと見つめた後、何を思ったのか、再び机の上に戻してしまった。

それから数日後。

凪は、久々に公園を訪れていた。

少女の家の窓を見上げると、奇遇にも、顔を出した少女と目が合った。

?「あ!」

だが少女は、すぐ部屋に引っ込んでしまった。

そしてしばらく後……

?「お兄さん! ご無沙汰ですっ!!」

凪「やぁ、こんにちは」

?「聞いてください! 私、ピアノのコンクールで、最優秀賞を取ったんです!!」

凪「ああ、それはおめでとう……良かったね」

?「はい、一生懸命練習した甲斐がありました!!
これで、お姉ちゃんに顔向けが出来ます!」

よほど嬉しかったのか、少女は溢れんばかりの笑顔で、凪に親しげに語りかける。

コンクール会場での様子や緊張感、実際に演奏すると、まるで魔法にかかったようにスムーズに弾けたことなどを、事細かに一方的にまくし立てる。

先日のドン退きの態度がまるで嘘のように、少女は懸命に喜びを伝えようとした。

凪は、そんな少女の様子に、力なく微笑む。

?「あの、どうなさったんですか? なんだか、とっても元気がないみたい……」

凪「ああ、気にしないで。大丈夫だから」

?「もしかして、あの、この前お話されていた病気の――」

凪「そんな事より、一つ聞いてもいいかな?」

?「な、なんですか?」

凪「君が今、どうしても叶えたい願い事って、何?」

?「え? それって、どういう意味ですか?」

少女の表情が、少し曇る。

だが凪は、慌てて手を振った。

凪「いや、ただの世間話だよ。
ほら、ピアノコンクールで賞を貰った以外に、まだ夢とかあるのかなって」

?「ああ、そういうことですか!
そうですね~……」

少女は、顎に指を当てて考え込む。

その仕草が、亡き妹のそれにそっくりで、ふと目頭が熱くなる。

少女は、しばし愛らしい表情で考えていたが、一瞬だけ、険しい表情を浮かべた――ような気がした。

?「あ、あの……言ってもいいですか?」

凪「うん、何?」

?「お兄さんに、元気になって欲しい」

凪「え? お、俺?」

予想もしなかった答えに、凪はうろたえる。

?「そうですよ。だって今のお兄さん、まるでゾンビみたいなんだもん」

凪「ゾンビは酷いなぁ」

?「あ、ご、ごめんなさい……あの、じょ、冗談だから」

凪「はは、いいよ、気にしてないから」

凪の寿命が残り少ないという話を覚えていたのか、少女は心底申し訳なさそうな顔で謝る。

凪は力ない笑顔で軽く返しながらも、心中は困惑していた。

(おいおい、俺の寿命を使って願いを叶えようっていうのに、
それじゃあ本末転倒じゃないか)

凪「他に、君の為になるような願い事はないの?」

?「なんですか、お兄さん?
まるで、本当に願い事を叶えてくれるみたいな口ぶりですね」

凪「そうだよ」

?「えっ?」

不思議そうな顔をする少女に、凪は笑顔を返す。

凪「信じてはくれないだろうけど、僕にはあと一回だけ、
願い事を叶えることが出来るんだ」

?「……!」

少女が、沈黙する。

それはこの前のような、微妙に退いているリアクションのように思える。

だが凪は、どうしても自分の思いを伝えたかった。

凪「まあ、信じられないなら、それでもいいさ。
けどせっかくだし、君の本当の願い事を、聞かせてくれない?」

?「お兄さん? その話、本気で言ってるんですか?」

凪「え、あ、ああ。――本気、だよ」

少女が、急に真顔になって凪に迫る。

その迫力に、凪は少し気圧された。

?「だったら、さっきのお願い事を……。
私、本気でお願いしたいです」

凪「さっきのって、俺の?」

?「はい、そうです! もし、お兄さんが本当に私の願い事を
叶えてくださるなら、それを是非!」

凪「あ、ああ……うん」

それっきり、二人の会話は止まってしまった。

アパートに戻ると、凪は、ほぼ金色に染まりつつある石を見つめた。

凪「おい、じきにもう一回頼み事をするからな。
その時はよろしく頼むよ」

そう呟いて、石のてっぺんを指で軽くつつく。

二度目の激しい発作を乗り越え、凪は、今度こそ自らの死を達観出来る領域に至っていた。

否、そう感じられるようになっていたと言うべきか。

既に二回の願い事を行い、自身の命が削り取られていく事を実感した彼は、残り一回の願い事も、少女の為に使おうと考えたのだ。

少女の願いは、凪自身の健康回復。

しかも、何故かとても真剣な面持ちで。

凪は、自分の事を思って願い事を言ってくれた、彼女の反応がとても嬉しかった。

(自分の命を削って、自分の健康を願う……か。
物凄い矛盾だけど、どうなっちゃうのかな?)

多少自暴自棄になっていることもあり、真剣に考える気になれない。

凪は、その日は自身の身の回りの整理と、やりたいことを行うために費やすと決めた。

そして、名も知らぬ少女のために願い事を唱えるのは、深夜に行おうと考えた。

好きな物を沢山食べ、ゆっくりと風呂に入りリラックスして、慣れない酒を嗜みながら、閑散とした室内に引き篭もる。

部屋の真ん中に敷かれた白い布団が、凪の最期の瞬間を向かえる場だ。

凪は、眠くなるまでいつものように過ごし、寝床に入ったら石に願い事を伝えて、そのまま息絶えようと考えていた。

自分のような、つまらない人間の命でも、誰かの喜びを育むことに使えるなら、それでいいじゃないか。

たとえ、それが一瞬の喜びだとしても……

死と直面した凪の出した結論は、そんなものだった。

夜になり、周囲もすっかり静かになった頃。

凪は、妹の藍を思い出していた。

藍は、たった一人の妹にして、唯一の家族だった。

両親を事故で失ってから、凪は必死になって妹を育てて来た。

そして藍も、父親のような存在の兄を慕い、愛した。

年の離れた妹のことを優先させるあまり、自身の進学を諦め、十代のうちから働きに出て、収入を上げるために必死でスキルを磨き、より良い条件の転職を重ねた。

その結果、妹を大学に入学させられる程の収入を得られるようになった。

愛する妹のために、全てをかなぐり捨ててがむしゃらに頑張った凪に届けられたのは、妹を蝕む不治の病の知らせだった。

妹の進学と、二人の今後の生活の為にと貯めた貯蓄は、高額な治療費に消えた。

それでも、妹の命を僅かでも引き伸ばす為に、凪は更に仕事に励まなければならなかった。

そして与えられた、余命宣告――

両親を失った時をも遥かに上回る悲しみと絶望、悲哀は、凪の心を激しく蝕んだ。

だがそれでも、凪は最後まで、藍の最愛の兄を演じなければならなかった。

懸命な闘病生活にも関わらず、藍は、蝋燭の灯火が消えるように、ひっそりと息絶えた。

それから後の記憶は、定かではない。

気がつくと、それから数年の月日が経っており、凪は、激務に追いやられる会社の歯車として働いていた。

そんな彼にも訪れた、妹と同じ病。

その時の彼にとって、自分の余命宣告は、むしろ救いのようにも思えた。

ふと、涙が頬を濡らしていることに気付く。

もうまもなく日付が変わろうとする頃、アルコールが回ったこともあり、眠気が訪れ始めた。

凪「よし、じゃあ……そろそろ行こうか」

ほぼ金色に染まった黒い石を握ると、凪は明かりを消し、ゆっくりと布団に潜り込んだ。

天井が、窓から差し込む淡い光に照らされ、ぼんやりと輪郭を浮かばせる。

暗闇の中、凪は、目を見開いて、それを見つめていた。

ふと、あの名も知らぬ少女の姿が、薄暗がりに浮かび上がる。

藍と生き写しの少女……彼女には、せめて幸せになって欲しい。

それが、凪自身の本当の願いだった。

しかし、だとすると、あの願い事をそのまま唱えるのは、気が引ける。

もうまもなく、日付が変わろうとしているという頃。

凪は、決心を固めた。

「石よ、俺の三つ目の願いを、叶えてくれ。
俺の、最期の願いは――」

禍石(まがいし) 黒 後編に続く