忘れられない夏の恋

あの時のあの瞬間に戻りたいと、誰しも思った事があるだろう。

私も、あの時に戻りたいと今でも後悔している。

私の名前は、きょうこ。

去年、某会社に入社したばかりの駆け出しの新人社員だ。

そして、忘れられない恋の相手は、たかみつ。

彼との出会いは、20歳の夏だった。

暑い日差しがアスファルトを照りつけるなか、私は5日間の新人研修で、大阪から神戸の研修センターまで1時間以上電車を乗り継いで通った。

そこで、たまたま隣の席になったのが、たかみつだった。

たかみつは、私を見るなり大きな瞳で「いつから入社したの?」と、敬語も使わずに、いきなりタメ口で話しかけてきた。

私の見た目で、自分よりも年下と判断したのだろうか?

でも、彼のタメ口は、なぜか嫌な気がしなかった。

「入社したのは、去年です。」と私が答えると、彼は私に「へ~同期だね。宜しくね。きょうこちゃん。」と、まだ名乗っていないにも関わらず、私の下の名前で呼んだのだ。

ビックリした私は、どうして私の下の名前を知っていたのか彼に聞きたかったが、講師の先生が教室に入って来たので、聞く暇もなく研修はスタートした。

研修の内容はとても為になるもので、私は真剣に授業を聞いていたのだが、時折、資料に目を通そうと横に目をやると、たかみつが私の視界の中に入ってきた。

彼は、授業を聞いているような姿勢で、熟睡しているではないか。

この見事な技には、感心してしまった。

講師の先生も、たかみつが寝ている事には全く気付いていない様子だった。

最初の授業が終わると、短い休憩時間のなかで、私はお手洗いに行った。

トイレから出てくると、目の前のベンチにたかみつが座っていた。

私が「良い授業でしたね。」と、たかみつが寝ているのを知っていたのに、わざと意地悪で言ってみた。

すると彼は「いや~良く寝たよ。授業の声が子守歌みたいに聞こえてきてさぁ。」と、屈託のない笑顔で私に話した。

この裏表がなく笑っている彼を見て、私はなんだか胸がざわついた。

私は、これまで授業で寝た事のない、いわゆる模範的な学生時代を過ごした。

就職してからも、職場では目立たないように、ひっそりと過ごしてきた。

そんな大人しい私の性格と真逆の彼が、太陽のように眩しく見えたのだ。

次の授業は、隣の席の人と共同で行う授業で、たかみつとペアになった。

お互いに質問し合うのだが、彼は、なぜか授業とは関係のない質問ばかりしてきた。

「今日の髪形は、自分で巻いたの?それともパーマ?」「好きなお笑い芸人さんは?」「彼氏はいるの?」まるで、お見合いパーティーのような質問に、思わず私は笑ってしまった。

それを見た彼も、爆笑していた。

私は、質問に対してわざと面白い答えで、茶化すように答えた。

何を考えているのか全く分からないけれども、なぜかどんどん彼に惹かれていく自分がいた。

その日のランチは、前の席の女の子と2人で近くのカフェに食べに行った。

たかみつは誰とランチを食べに行くのかなと視線で彼を追っていると、なぜか大勢の男女のグループを引き連れて、ランチに行っていた。

本当に不思議な人だなと思ったと同時に、私とは違う世界に住む人だなと改めて自覚した。

ランチが終わり席につくと、彼はまだ戻っていなくて寂しい気分になった。

午後の研修がスタートするギリギリで、彼は戻ってくるなり「どこで食べてたん?そこのラーメン屋めっちゃ美味しかったよ。」と、私に気さくに話し掛けてくれた。

きっと彼は誰にでも優しいのだろうと思った。

初日の研修は無事に終わり、たまたま一緒になった、たかみつと駅まで一緒に歩いた。

その間はずっと、笑いが絶えることなく、お腹がよじれるほど笑った。

駅で「また、明日ね。」と言って、彼とお別れをした。

翌日も、たかみつと隣の席で、研修中にふざけた事を言って笑かしてくる、たかみつとの時間が、私にとって貴重な時間になっていた。

研修そのものが楽しいというよりも、たかみつと話をしている事が楽しいと感じていたのだ。

そう、私は彼の事を好きになっていた。

2日目は、昨日と同じ女の子と、たかみつの3人でランチに行った。

ランチ先は、たかみつが昨日話していた、美味しいラーメン屋さんだった。

3人とも、たかみつのお勧めのメニューを注文した。

出てきたラーメンをひと口食べると「美味しい!」と思わず声に出してしまう程、これまでの人生の中で1番美味しいラーメンだった。

この日も、一緒に帰り、ずっと笑いっぱなしだった。

こうして、研修の最終日がやって来た。

最終日は、テストだったので、たかみつと話す時間はほとんどなく、テストが出来た人から順に帰るというシステムだった。

私は、割と最後まで残った。

周囲を見渡すと、既に、たかみつは退席したようで、教室に彼の姿はなかった。

寂しかったがしょうがないと思い、テストが終わり教室から出ると、彼は玄関の所にいた。

そして、たかみつは「一緒に帰ろう」と私に声を掛けてくれた。

やはり、この日もずっと笑いっぱなしだった。

そして、駅に着きこれで本当にお別れだなと思い、改札口の所でお別れを告げようと思うと、たかみつは私に名刺を渡してくれた。

「裏側に連絡先を書いているから、もし連絡したくなったらちょうだい。」と言って、さよならをした。

私は、必ず連絡しようと思い、大事に名刺をスーツのポケットに入れた。

仕事が終わり帰宅して、ようやく落ち着いたので、たかみつに連絡しようと思い、スーツのポケットに手を入れると名刺が無い。

そう、どこかで落してしまったのだ。

この日以来、2度とたかみつとは会う事はなかったが、今でも名刺を失くしてしまった事を後悔している。